この奇蹟は、ペテロとヨハネが祈りのために宮(神殿)に上って行く時の出来事。
場所は「美しの門」。その門は金銀とで飾られ、朝日に照らされると輝く美しい門であった。
ポイント① キリストの名による奇蹟
〔6節〕 ペテロには金銀はなかったが、あるものを提供した。他者との比較は不要。
ここでのイエス様の御名の原文は、固有名詞の記号ではなく実質の人格と権威を表すもの。
ポイント② 神に栄光を帰した奇蹟
〔2:43〕 使徒によって多くの不思議としるしがなされたことの中の一つの例。
この奇蹟のすばらしさは、肉体上の癒しだけに終わらず、彼の心の変革が起こった事である。
キリストの証人として賛美する者、礼拝者へと変えられた。
ポイント③ 愛による奇蹟
〔2節〕 生まれつき足のなえた人→原文では、母の胎内から足が悪かった。(先天性の障がい)彼への扱いは「宮の門のところに、置かれていた者である。」(口語訳)まるで物扱いであった。これは日々の習慣的で反復を表す未完了形。愛は悩める者に関心を示す。愛は一時的なものではなく、根本的な解決を与え、相手が立てるように手を貸すこと。
〔4~5節〕 ペテロとヨハネは「私たちを見なさい」と語り、彼は二人に期待しながら目を注いだ(注目した)。目と目を合わせるとは人格的な心の交流であり、彼が人として認められ、取り戻せる時。それは、孤独であった彼が愛の眼差しによって回復される時でもあった。
福音は、失われた者を捜して救う世界である。奇蹟を生んだのは「愛」であった。どんなに優れた賜物や慈善を施せても、そこに本物の愛が無ければ何にもならない。(Ⅰコリント13章)
結論
主の御業には常に愛が伴っておられた。律法主義的生き方の中にあった彼らが、ペンテコステの日に聖霊なる神様に触れられて変えられた。心を痛め、何かに助けを求めている人はいるか? イエス・キリストの御名と神様の愛が解決する。クリスチャンである私たちは、主の愛によって福音を広める者にならせていただこうではないか。