主の栄光のために ゼカリヤ7:1〜14 小泉 智先生

長年、行ってきたことを続けるかやめるか。これはなかなか判断が難しいものです。ベテルの人々が従者とともに、祭司や預言者に問うたのはこの問題でした。例年五月に続けてきた断食祈祷をそろそろやめてもいいでしょうか。彼らは少なくとも七十年間は五月の断食祈祷を続けてきたのです。これは神殿の破壊を記念する敗戦記念の悲しみとして続いた断食。神殿再建にめどが立った今、もう廃止してもいいのではないですかとの指摘です。

 

私たちの一体判断基準はどこにあるのでしょうか。ただ単純に時代が変わったから。昔の記憶を引きずりたくないから。果たしてそれだけでいいのでしょうか。それでは単に時代の空気にふりまわされ、様々な教えの風に吹きまわされないとも限らない。時代と結婚する者は次の時代には未亡人になるという格言を聞いたことがあります。新しいからと飛びつかず、古いからと切り捨てず、正しいものを識別する鋭敏な感覚を持つことはできるでしょうか。

 

神の答えはもっと根本的なことでした。断食をやめる、やめないの前に、そもそも七十年間のあなたたちの断食は一体何だったのかと。ただ戦争に敗れたわが身の不運を嘆くだけの自己憐憫なら、どれだけ断食しようと意味はない。主のあわれみによって神殿が再建され始めたにしても、昔の自分たちの栄光が戻ったとばかりに断食をやめたいと言うなら、単に自己憐憫と自己賞賛を繰り返しているだけではありませんか。そこのどこに神がいるのか。

 

信仰とはそもそも神に向けられる心なのです。どれだけ立派な宗教行為が行われたところで、心が自分に向いているだけなら、それは決して神の喜ばれるものではありません。いつの間にか、神の栄光を自分の栄光にすりかえてしまいやすい私たち。失敗を通して主が何かを教えようとしているのに、自分の不幸を嘆くだけで、何も学ぼうとしないところのある私たち。長年続く伝統であろうと神に心開く用意ができてこそ意味があるのです。

 

神に心開くとはどういうことでしょう。神の御霊に聞くということでしょう。主の霊が解き明かして下さる律法と言葉、すなわち聖書に深く聞き入り、この状況の中で従うということでしょう。それは日常生活の中で、やもめ、みなしご、他国の寄留者などの最も困難な立場にいる人に手を差し伸べる愛のわざにあらわれるはずです。主は義なる方であり、最も困窮する者をあわれむお方なのですから。神の民は主と同じ心で、社会に開かれていくはずです。

 

しかし、彼らは主の霊を拒み、律法に聞き従おうとしなかった。しかもダイヤモンドのような固い心で。それどころか断食を続けながら、周囲の困窮者を苦しめている。信仰とは交わりです。神との交わりにやわらかい心で自ら差し出す者は、分断された人間関係をも改めていのちといのちの交わりを深めていくはずです。自分さえよければという無関心を捨て、自分さえ恵まれればと言う自己満足も捨て、求めませんか。自分を通してただ神の栄光を。

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