知保子コストナー姉の賛美、Who am I ?はとても印象的。「わたしは誰ですか?」その答えがわからず、人はもがいたり、苦しんだりするもの。そして、だからこそ、自分とは何者なのかがはっきりすると生き方が変わる。人生の軸がぶれなくなってくるから。
パウロがコリントの教会に宛てて記した手紙の冒頭より、キリストを信じる私たちはどのようなものなのかを学ぼう。
第一に、私たちは「聖徒として召され」(1:2)た者。自分自身を見ると罪多き者でとても聖徒だとは思えないが、神はそんな私たちを喜んで呼ばれたのだ。教会とは漢字では「教える会」と書くので何かを学ぶ会のように思いがちだが、本来の言語の意味は「エクレシア=呼び集められたものの集まり」。ここにいる一人一人を神は探し、選び、求めてくださったのだ。
第二に、「キリスト・イエスになって聖なるものとされた」(1:2)者。かつては罪の中に沈んでいた私たちのため、キリストは十字架にかかって救ってくださった。あなたが主を信じているなら、あなたの内に神の赦しが及んでいる。あなたは聖なる者、神の子とされている。これを疑ってはならない。他人がどんな評価をしようと、自己評価が低くても、神はあなたを愛して命をささげてくださったという、この恵みの事実に立とう。
第三に、私たちはキリストを人生の中心として生きる者。「主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です」(1:2)とあるとおり。心の王座にキリストを迎えるならば、あなたの生き方がキリスト中心になっていく。水面に波紋が広がるように、キリストが内に住まうあなたを通し、恵みの波紋が周りに広がっていく。
人生の軸がぶれそうになる時、自分が誰なのか見失いそうになる時、助けと答えを求めて祈っろう。神は道を開き、あなたを支えてくださる。あなたは私の子ども、聖なる者だと答えてくださる。イエスを主として生きる人生は本当に輝いた人生となる。信じて、それぞれの人生の光をなおも輝かせていこう。